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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

伊勢斎宮ノート・後篇

斎宮生活の全容は明らかになっていないそうで、今後の発掘調査待ち…という話だそうです。というわけで、せいいっぱいの想像力を駆使して、調査ノート・後篇とします。

【注意】以下は、物語の舞台設計も合わせて、事実と想像がマゼマゼとなっております。

▼斎王に仕えた女官の組織▼

  • 女官別当(定員1)=女官を管理するトップの役職で、たまに任命されたという話。(女中頭というのに近い?)
  • 斎宮内侍=女官のうち、一番位の高い事務職女官(当時の言葉で言えば多分、部屋を与えられた「女房」)。斎王のサポート役で、種々の文書を管理。
  • 斎宮宣旨=内侍に次ぐ位置にある小間使い的な女官で、内侍の雑用を行なった。「斎王の御文の使い(宣旨)」など。
  • 女嬬=様々な雑用を行なう。灯火の管理や部屋の掃除、種々の御文の使いなど。年齢は様々だったらしい。有力者の娘が殆どで、どうも「宮廷行儀見習い(花嫁修業)」といった感じで、良家のお嬢さんが送り込まれていたらしい。

▼斎宮の統治組織▼

  • 斎王(1)=とりあえず女王。
  • 斎宮寮頭(1)=長官。都知事みたいな感じ?
  • 斎宮助(1)=次官。副知事みたいな感じ?寮頭が不在のときはトップを務める。
  • 斎宮大允(1)/斎宮少允(1)=斎宮内部の監査。法令違反取り締まり役。罪状の取調べや裁判、事情聴取などを行ない、法令に詳しかった筈。
    ※分かりにくいので、物語の中では「判官2人」で統一したい…^^;
  • 斎宮大属(1)/斎宮少属(1)=記録や文書の起草、読み上げ役。
    ※分かりにくいので、物語の中では「主典2人」で統一したい…^^;
    ※その役職の都合上、斎宮内侍や宣旨とは、事務系の文書交換で、密な協力関係にあった。
  • 史生(4人)=係長、主任みたいな。行政文書作成、報告書作成?上役(=この場合の上役は斎宮寮頭、斎宮助、判官、主典か=)のハンコや花押をもらって回ったりした。
  • 使部(つかいべ・20人)=多分、ヒラの事務職員。文書整理、文書運搬、伝達処理、イメージとしては区役所の事務さんみたいな感じ?

▼斎宮寮の役人の組織=斎宮十二司(分かりやすさのため順番入れ替え)▼

・・・神事関係

  • 主神司(かみづかさノつかさ)=神事事務官。物語の中では廃止、神祇官が務める。
  • 采部司(うねべノつかさ)=神事補助のための女性事務職。気になるのは主神司が廃された後、どうなったかという事。

・・・政治・物資管理の関係

  • 舎人司(とねりノつかさ)=総務・庶務。来期予算を組んだり、公務員の出勤チェックもしていたと思う。
  • 蔵部司(くらべノつかさ)=倉庫。金庫。多分、財政に関して、大蔵大臣よろしくパワーがあった。算盤をはじいていた筈。
  • 膳部司(かしわでべノつかさ)=食料関係。多分、お米やその他の食料の一括搬入事務を専門にやっていた。蔵部とは必然的に協力関係にあったと思われる。
  • 殿部司(とのもりべノつかさ)=施設管理。建物内部の管理。照明器具、炭燃料、食器、几帳や屏風の管理、修理、出し入れなど?蔵部とは協力関係。
  • 掃部司(かにもりべノつかさ)=清掃業。廃棄物の処理。トイレ管理。殿部とは必然的に協力関係にあった筈。

・・・水・食事の管理関係

  • 酒部司(さかべノつかさ)=酒関係。多分、塩・酒類の一括管理をやる所だった。酒の醸造までやっていたかどうかは不明。膳部と一体になって動いたと思われる。
  • 炊部司(かしきべノつかさ)=料理番。コックさん。膳部と一体になって動いたと思われる。多分、女嬬が頻繁に訪れていた。
  • 水部司(もいとりべノつかさ)=水回りの管理。水がめや水筒(水差し)に水を足して回るとか。清潔を維持する都合上、掃部とは関係が深かったと推測。
  • 薬部司(くすりべノつかさ)=医薬関係。お医者さん。

・・・警備体制の関係

  • 門部司(かどべノつかさ)=門番。衛士。貴人のボディガードを務める場面もあった筈で、武士が頻繁に出入りしたと思われる。その職掌の都合上、判官(=法令違反の取締り係=)と協力関係にあったと推測。
  • 馬部司(うまべノつかさ)=厩の管理。お馬さんの世話。

・・・以上・・・

役職の調査をしていて、実は、水補給係の「水部司」という部署が何故に必要だったのか、一瞬見当が付かなくて、少し考えてしまったのですね^^;

で、つらつらと考えてみて、やっと、「昔は水道が無かったんだ」と言う事に思い至りました。昔は水場までの距離も遠く、超・不便だったに違いありません。まして庶民生活の中では、水汲みはずっと、女子供の仕事(重労働)でしたし…

江戸時代の頃にようやく都市部への水道ネットワークを敷くことが出来て、都市の中に水場が設置されるようになったのですね(井戸に水道を通していた)。江戸時代は考えてみると、古代の京都文化以来の、庶民参加型の都市文化の成熟を促すという点で、画期的な時代だったのかも知れません。

(資料)斎宮物語
年間行事のリストがあって、便利に利用させていただいております。
添付イラストがキレイです…*^^*
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伊勢斎宮ノート・前篇

物語の制作に関して、伊勢神宮の調査をして、伊勢斎宮のことも調べたのでメモです。

斎宮・・・「さいくう」と読むらしいです(間違っていたら指摘下さいまし…)^^;

古代中世の建築は現存しておらず、発掘調査によって往時の姿を偲ぶのみ…という状態だそうです。離宮という位置付けから想像される小ぶりの館といったものからは相当に異なっており、「竹の都」とも呼ばれた、本格的な都スタイルだったそうです。東西2km、南北700メートル、碁盤の目状の造りであったと推測されているそうです。

「竹の都」と呼ばれたのは、斎宮が「多気郡」にあったためだという話です。この辺、ユーモアを感じますね(笑)。斎宮は神領である「多気郡」と「度会郡」を統治する役所でもありました。政治的には、斎宮は「伊勢神宮エリアの領主の都」という位置にあったと考えられます。

最盛期の斎宮は、もっと規模があったのでは無いかと推測され、斎宮を管理する役人・斎王の世話をする女官合わせて、500人程度が詰めていたという記録があります。

しかし、鎌倉・室町になると、中央の政治対立に伴う「事業仕分け」や南北朝の対立があって、治安も急激に悪化し、規模が縮小し、ついには消滅に至ったという話。

以上、古代・中世の時代を通じて平均すると、だいたい80人から100人前後の役人・役人関係者が詰めていたと推測されるものであります。

実際には、役人にも家族があったでしょうし、地元の有力者が一族で詰めるという事になれば、記録には残されてなくても、かなりの人数になった…と考えられますし、規模の推測に幅が出てまいりますが…^^;

さて、斎宮の政治機関が「斎宮寮」と呼ばれました。ここに統治をあずかる高位の役人が詰め(=官位としては従五位が最高だったらしい=)、あるいは斎王群行の際の勅使の詰め所になったり、斎王や女官が生活したり、色々の業務が行なわれていたと言われています。

斎宮寮の構造は、ざざっと分けて三部構成になっていたそうです。

  • 内院=斎王の坐すところ。斎王が生活していた館を含むらしい?
  • 中院=斎宮寮の事務局。ホワイトカラー系の役人が詰める
  • 外院=雑舎。門番や馬番など、ブルーカラー系の役人が詰める

「斎宮」というのが、人間を指すのか都を指すのか、結局よく分かりませんでしたが、「斎宮寮」とその周りの庭園や領地などの部分を曖昧に含めて、「斎王の坐す都」の全体をくくって、「斎宮」と言うのだ…というのが、適当なようです…^^;

どうも斎宮は「大きな離宮」というに相応しく、数々の宮廷儀礼が行なわれていたようで、従って、女官たちの装束も、都にならった華やかなものになっていたようです(※財政に不足するようになった中世の頃は、どうだったのか?というのは不明です)。

でも、基本的に、お金をやり繰りして、都よりはお金のかからない生活をしていたのでは無いでしょうか。

斎宮の財政は、神領からあがってくる租税と(伊勢神宮が協力)、国司含む地元有力者の支援、都からの支援で成り立っていたという話で、それぞれの意見を無視しては運営できず、かなり独自、かつ地元の事情に密着した政治が行なわれていた可能性があります。

斎宮の歴史の初期においては都の意向が強く働いていたようですが(在原業平のケースなど)、摂関政治の衰退期は、すでに武家台頭、地方動乱の時代となっており、地元有力者の意見が大きくなっていたようです(=斎宮寮のトップを務める「斎宮寮頭」というのを伊勢国司が兼務したという記録がある=)。

次の院政期&鎌倉時代は、寺社勢力が強大になり、その流れで、伊勢神宮の意見が強くなったという状況が推測されます。

・・・うーむ。「斎宮」といっても、その中身は、時代ごとに時の勢力の影響を受けて揺れ動いたのであろうと想像されるものでありますね。

物語の設計に使えそうだなという記録が色々見つかって、面白かったです(暴風雨の中で神がかりした斎王のエピソードが一番ドラマチックで、ビックリしました。物語シナリオに入れるかどうかは未定ですが…)。

装束・官位の資料ノート

物語設定の都合上、平安時代末期から鎌倉・室町期の服飾・官位をマゼマゼ。

★公卿・貴族・役人(首都エリアに限る)

―【元服前の男子】

  • 日常着=童水干、半尻(=子供版の狩衣)
  • 晴れ着=童直衣(童殿上に着用。童殿上とは、公卿・重臣・重役の息子たちが元服前に宮中へ出勤すること。露頭スタイルで無冠。小姓・小間使いなど、仕事見習い的な扱いだったらしい。赤紫色の若年直衣を着用)

―【元服後の男子】

  • 日常着=「直衣」、「狩衣」、「水干」、「直垂」(※直垂は室町になってかららしい。若年ほど模様が小さく細かい)
  • 正式な出勤用=「衣冠」(天皇=濃ハシバミ系、皇太子=オレンジ系、親王&重臣=黒、五位=赤、六位&秘書系=紺、それ以下&無位無官=水色から薄黄。後ろに引きずっている長い布は無し)
  • 略式の出勤用=「冠直衣」(地方のもっと実用的・作業的な場所では、狩衣や水干でもOKだったらしい。年齢によって直衣の色合いのパターンが変わる。夏季直衣は二藍=紫系カラー。若年ほど赤が強い紫で、老年に近づくにつれて藍色が強くなり、ホワイト系になる。冬直衣は表白裏紫。若年直衣の裏地は赤味が強く、壮年になると裏地が紫、老年に近づくにつれて裏地が紺色になる)
  • 国家的儀式用=「束帯」。長い引きずる布を後ろにくっつける。官位による色のパターンは衣冠と同じ。長い引きずる布は、夏季は赤系、冬季は白系。無位無官はそもそも宮中儀式に出席できなかったので、長い引きずる布は無かったと思われる。
《一般的な着物模様》
@上半身=輪無唐草、轡唐草、繁菱、三重襷(男子の着物模様は幾何学系で、堅めの文様が多い。現代のスーツと同様に、案外バージョンが少ない感じ)
@下半身=鳥襷、八藤丸、エトセトラ。皇族クラスに限り雲立涌
@六位から着物の文様が上下共に消える。但し蔵人クラスは麹塵(黄緑カラー系で禁色)の上半身を着用可能だった

・・・さすが宮廷カースト制。男子制服に課せられる制限の多さは、頭が痛くなりますね…^^;;

「殿上人」の感覚がよく分からなくて、アレコレ考えていたのですが、重臣や重役の息子さんが「童殿上」という特権を与えられていたという資料を見て、「あ、これは、大企業の会長室や社長室や重役室に、フリーパス&カジュアルなスーツで入れる立場の人々のことなんだ!」と、ピンと来ました。

そうすると、蔵人(=天皇の秘書さんみたいな役職)が六位の紺スーツで殿上人であるという感覚が、よく理解できるのでした。侍読(天皇の家庭教師みたいな役職≒大学教授)はカジュアルな冠直衣で殿上していたという記録がありましたが、蔵人(秘書さん)の方は、正式なスーツでお勤めしていた筈であります。

ちなみに、安倍清明が鬼に注文している有名な絵巻では、清明は「黒の束帯・引きずる布付き」を着用しているのですが、清明の官位を調べると、彼は最終的には、「従四位下」に出世しているのですね。四位なので、黒のスーツで良かったんだと納得しました。

でも、陰陽師は結構、複雑な作業を要する職業ではあるので、神職や舞楽と同様に、狩衣&直垂の方が日常活動のメインだったのかも知れません。

―【布地は何だった?】

布の種類は現在に比べるととても少なくて、絹、麻、葛布がメイン。木綿は鎌倉後期から室町の頃に輸入が始まったという話。元寇の頃には、「話題の新製品」という感じで、既に広く知られていたようです。海運業の発展と共に木綿利用のエリアが広がっていたとすれば、木綿衣料は文字通り、戦国時代の交易の中で急成長を遂げたと言えるかも。

当時の庶民クラスの着物は麻がメインで、冬季は麻クズや絹クズ、蒲の穂をワタに利用していたという話で、冬季は寒くて辛かったのでは無いかと思います。

あとは、コモ(ワラ編み)がとても暖かかったというお話がありました。屋根の無い乞食や流浪民は、コモを巻いて冬をしのいだのかも知れないと想像されるものでした(現在のホームレスが、新聞を巻いてベンチで寝ているのと一緒ですね・汗)。そういえば、蓑笠や藁沓は、よく知られていたのでした…^^;;

おまけですが、漁網は、藁や麻、カラムシ(苧)、葛糸がメインだったようです。天然繊維ですし、海の中は微生物の宝庫ですし、腐りやすかっただろうなあ…と、想像。夏場の腐敗臭の凄まじさを想像すると、ちょっと頭がクラクラして参ります(鴨川などで使われていた漁網は、さすがに水質清浄だったので腐りにくかったと思いますが…どうやって管理したのだろう?)…^^;;;

★官位(適当に)

@正一位=太政大臣、総理大臣、伏見稲荷大社w(゚o゚)w、一品親王(多分、皇太子)

@従一位=親王クラス(皇太子の兄弟)、摂関家に連なる大貴族、二品親王

@正二位=左大臣、右大臣(多分、内閣の官房長官クラス)、三品親王

@従二位=内大臣、副社長・専務クラス、四品親王

@正三位=大納言、伯爵、統帥&元帥(国軍トップ)、取締役クラス、上流貴族クラス

@従三位=各大臣クラスでは無いかと…会社としては常勤役員クラス相当と推測

@正四位=平安末期の頃は、貴族で無いものとしては最高位だったらしい。院政期に入ると、次第に武士が占有するようになるので、多分、近衛兵のトップや、江戸の大名クラス。地方の領主(地方王国の王)。非常勤役員クラスとか、監査役とか、そんな感じ?

@従四位=重臣の嫡子が蔭位(=親の七光りみたいな)で自動的に与えられた。親王の子は「従四位下」からスタート。庶子は一階降ろす。安倍清明のケースからして、特務官僚など、重臣&重役の秘書・相談役レベル?

@正五位=高位高官クラス。「奏上(というか、種々の正式な報告)」はこの地位。本部長クラス相当と推測。

@従五位=貴族の嫡男クラス。重役・重臣の息子や、皇族の血を引く「王」の息子が「従五位下」からスタート。庶子は一階降ろす。自動的にセットされる殿上人としては初級レベルで、多分、ハンコ押したりサイン(花押)したりするだけの名誉部長とか、そんな感じ。でも実務の観点からは、有能じゃないと勤まらなかった筈なので、長年勤め上げているベテラン官僚が多かったと想像。

@六位以下=六位は蔵人。皇族の遠い親類にあたる「諸王」の息子が、「従六位下」からスタート。庶子は一階下ろす。こちらは所長といった感じ。ずっと末席の王族になると「従八位上」からスタート。多分、課長や係長、主任といったクラスで、以下ヒラ官僚(普通のサラリーマン)が続く。


☆古代~中世の官僚のお給料の調査。時価換算でどれくらいの年収になるか:

  • 太政大臣(正従一位)…年間収入=7億円~8億円
  • 左大臣・右大臣(正従二位)…年間収入=5億円~6億円
  • 大納言(正三位)…年間収入=3億円~4億円
  • 中納言(従三位)…年間収入=1億円前後
  • 親王クラス・各省長官(正従四位)…年間収入=5000万円前後
  • 各省次官・幹部クラス(正従五位)…年間収入=1000万円~3000万円

------超えられない壁(貴族と地下人を分ける特権&身分の境界)------

  • (正従六位)…年間収入=800万円前後(副業で成功すれば1000万円以上の年収)
  • (正従七位)…年間収入=500万円~600万円
  • (正従八位)…年間収入=400万円~500万円
  • 末端の長レベル・獄吏長など(大初位)…年間収入=200万円~400万円
  • 末端のスタッフ(少初位)…年間収入=100万円~200万円

屋敷の維持費や衣料代、使用人のお給料は年収の中から出すわけだから、お金の回転はかなり良かったのでは無いかと想像。使用人1名あたり、部屋代や食費を天引して実費で年間平均100万円程度のお給料を出すとして、公家クラスはだいたい100人~200人の使用人を持っていたというが充分雇えるレベル

※貴族身分の人々には、お馬さんの維持費(今で言えばタクシー代・交通手当)も支給された。地方勤務の官僚の収入は、都より一ランク落ちる傾向があったようです